2008年12月30日火曜日

12/30 思うところ1 (トモ)

12月3日に卒業式、そして12月15日に日本に帰国。ローザンヌでの生活が終わってからほぼ1ヶ月。今ではまるでIMDでのつらい1年間が人生という線上にのらない離れた点として彼方に置きざれにされ、去年の昨日と今年の今日が滑らかにつながってしまったような錯覚すら抱きます。

帰国後、IMDでの1年間について人に聞かれる度に、自分なりにこの1年間はなんだったのかを改めて考えさせられています。IMDでは思い出せないくらい多くの経験をし、特に消化の難しいつらい経験は意識下に眠ったままでいまだに言葉にしてあらわすことができないでいるかもしれません。なのでとりあえず、”帰国後の感想”としてIMDでの一年間の体験が自分にとってどのような意味を持っていたのか、その「思うところ」を記しておきたいと思います。


まず第一に思うところは、IMDでの1年間は”現実”よりもより現実と向き合えた、ということです。

最初の半年間の土日も含めて毎日朝8時から夜の12時近くまで勉強する環境は想像を超えるつらさでした。入学してから3ヶ月ぐらい経過した頃から、「はやくこの異常な(Crazy)な環境から抜け出して現実世界 (Real world)に戻りたい」「こんなことは現実(Real world)では起こらない、IMDは特別な環境(Unusual environment)なのだから」などといろいろな言い回しで、「IMDは現実ではない」というメッセージが聞こえ始めてきました。

IMDに来る学生の平均年齢は31歳、勤務経験は7年程度と、他のMBAの学生よりも多くの国際的経験を積んでいます。しかし困難な課題を前に、心底悩み苦しまされることになります。そうして自分達が今まで築いてきた能力・知識が通用しない無力感に対する苛立ちから、この環境を「異常な環境」とすることで自らを正当化しているのかもしれません。それは自らを劣った存在として認めたくないという人間の”健全な”本能レベルでの拒否反応のようにも見えます。また、向上心と野心の高さだけは共通しながらも国籍や文化、性別、職歴など様々な点で多様性に富んだ90人が極度の肉体的・精神的なプレッシャーに晒されるわけですから、そこには「当たり前」といった共通の前提は皆無に等しく、グループ全員が納得するかたちで成果をだすことは難しいため、無力感を感じるのも至極当然であるともいえます。

逆にいえば、今まで経験してきた”現実”世界には、日常生活のひとつひとつの出来事に脳の力を使わずに深く考えることなく効率的な、ある意味では盲目的な対処を可能にする常識・慣習・権限といった「当たり前」があり、必要以上の無力感や徒労感を感じることがないようにまろやかになっているのかもしれません。そうした「当たり前」に疑問を投げかける者は社会の秩序という名の効率性を破壊する「悪者」であり、社会から抹殺されすらします。

しかし「当たり前」のないIMDでの1年間は、生徒間に公式の上下関係や役割分担はなく全員が同じ”MBA候補生”として横一線であるため、頼れるのは自らの人間性だけになります。一方では自分が「当たり前」と思っていた秩序に従わない他者は「悪者」として写りあたかも自分が秩序の番犬のような錯覚を抱きながら、他方では自分の「当たり前」があまりに通用しないことからそれに疑問をもち自ら秩序を変える「悪者」を演じる必要性を感じるという、なんとも訳がわからない状態に陥ります。そうした環境下において、”現実”世界では「当たり前」というオブラートに包まれて見過ごしていた自他の存在に改めて直面し、対応を迫られ、もがき苦しむことで、”現実”よりも生々しい現実を感じることになります。むしろ、そうした裸の勝負を通じて学んだからこそ、心の奥底にまで響く何かが残ったのかもれません。

裸で勝負するわけですから、裸になるための環境がしっかり整えられている点では人為的な現実であるともいえます。優秀な教授陣、洗練されたコース設計、すばらしい景色、おいしいランチ、監獄のような作業部屋、そして個性豊かな90人の生徒。しかし、これだけの土俵を整備せずには、スーツと名刺に保護された”現実”から離れることは困難でしょう。むしろ30歳を過ぎたおじさん・おばさんが恥ずかしげもなく裸で現実に向き合える土俵が整備されているIMDは真に稀有な場であると思うのです。